昭和五十四年十月十三日 朝の御理解
皆さんがこうして朝の御祈念の時に奏上されます祈願詞、これを聞かせて頂ながらおつも思うのですけれども、この通りのおかげを受けておるのが合楽教会だと思うんです。
皆さんこれをお読みになる時にずうっとそういう思いをもって読んでみてごらんなさい。もうこの一冊にまとめられてある。この祈願詞、祈り願う、その祈り願っておる事もさる事ながら、その願っておる事が教会の上に成就しておるという事なんです。この通りのおかげが受けられておるという事なんです。ですからここに御神縁を頂いておられる方達もやはり、だからあの、この通り、あの祈願詞。お願いをなさる、そしたらお願いがこのように成就していかなければおかしいという事になるのですね。だから、どこがおかしいかという事がいよいよ、拝聴する。所御理解の拝聴ですね。どうしてもやっぱり日参、教聴がいるようですね。日参、これは神様へ向ける言うならば一番素晴らしい修行だと思います、ね。そして教聴です。み教えを頂く、そすと祈願詞に願っておる事が成就していないとするならば、ならそこがどういうわけで成就していないのかという事が分かってくるんですね。そこん所を私は今日は皆さんの祈願詞をあげておられるのを聞かせて頂いて、今日は特にそれを思いましたからでしょう、あのう御理解の教典を開かせて頂いたら「白紙」の所を頂きますもん。ここん所をね。やっぱり白紙になってとこう言う。白紙になる事が実はむつかしいんですよね。まあ最近ここで言われるこの観念を捨てて観念に生きるという事です、ね。今までの自分の考え方とか思い方を一遍一掃するんです。観念をなくするのです。そして神様が言うて下さる事を、そのまま白紙の心に頂き止める事ですね。だから観念を捨てるという事が又むつかしいんですよね。永々そう観念して来たんですからね。そして間違いのない神様が教えて下さる事を自分の観念とする、ね。
今日はまあお商売人でするなら、今日はお天気がよいから、今日はお客さんが多いだろう。今日はお天気が悪いからお客さんの出足も少なかろうと、ね。その観念が邪魔をしてやはりお客さんが、成る程出足は少ないかも知れん。日曜なわけにはいかんかも知れんね。けれども、なら売上の上に於いては変わらんというおかげを受ければいいわけですね。観念があると、その自分の観念がおかげの邪魔をするんです。
二、三日前、日曜でしたかね、直方の山本さんがお届けをしておられましたが、もう本当に、本当に女ながらもま珍しい信心が出来ます。本当に感心します。私もね。昨日直方の方から原さんの御親戚の方が三、四人参って見えられてあちらの方から毎日山本さんという人が日参しておられるという事を聞いてからたまがっておられました。たまがりますよね。本当にもそれこそあらゆる万難を排して参って見えられるです。今度どっか黒崎か何処かに大変大きなスーパーのようなマーケットのようなものが出来たらしいのですね。よくテレビでも宣伝してます。その日は丁度開店の日が直方の商工会で、もう永年続いておる大売り出しの日だそうです。その日は沢山人が集まって沢山やっぱ売上があるそうです。ところがその日に限ってだけはね、もう本当にもうそれこそ町を通る人もまばらという位にお客さんが少なかったそうです。ところが親先生、不思議に私の方にだけはお客さんが切れ間がなかったち、でやっぱり同じ売上、いつも売り出しの時のようにおかげを頂いておったというお届けがあったんですね。只熱心にお参りが出来るからおかげを頂いただけじゃない事ある。もう山本さんの心の中にはね、問題は、おかげを頂かなければ出来んのだとね、という兎に角今日は黒崎の方のデパートのまあ開店大売り出しでま大変、バスまで出てからそのお客さんをさらって行ってしまう。直方の町はそれこそ売り出し日というのにま、まばらであったという程しにお客さんは少なかったけれども、あれは山本茶園というのですかね、お茶屋さんです。の所だけはお客さんが絶え間がなかったと言うのです。これは見事に観念を乗り越えておられる姿です、ね。だからそういう観念を打ち捨て、打ち捨てながらね、あの信心が本当の観念になっていかなきゃ、所謂神様のおかげを頂かなければという事です。
降ろうが照ろうがね、神様のおかげを頂かなければと、ね。そういう意味でなら合楽教会の場合なんかは、それこそ降ろうが照ろうがどういう場合であっても、私がここで頂いた力というものだけは、必ず最近はまた大分増えましたかね。それだけの事は毎日平均してある。こちらの信心がもちっと大きくなりゃもちっと多くなっていくでしょう。あ今日は天気が悪いからお参りが少なかったというような事はないですね。だから、例えばね、この食べ物は言うならばなら糖、私は糖尿病ですから甘い物はいかん、からい物はいかんという事に医学ではまそうなっております。だから、それはどこまでも医学の上からいう観念ですから、そういう医学からくるところの観念を打ち捨てて、教祖の神様がおっしゃるようにね、もう有り難く頂く心をもってすればさわる事はないとおっしゃる。だから私が実験してるわけです。もうここ十数年間私がお酒も頂くし甘い物も頂きます。糖尿病だからこれがいかん、これが良いというような事はないという事を、なら私は実証していってるわけですね。だから観念を捨ててね、そして本当の観念を打ち立てていくという事が大事です。
私共の心の中にはね、そういうおかげにならない観念がいっぱいあって、それがおかげの邪魔をしておるわけです。生神金光大神様、天地金乃神様。天地金乃神様のあまねく満るみ恵みと計り知れぬ御力に、天地の間の物皆は生かされて生きてある。その道理をまず知らなければなりませんね。自分が生きておるという観念を捨てなきゃいけません。神様のおかげを頂かなければね。それこそ一分間だって、もう一分間この世におりたいと思うたってそっれは自分の自由にはならんもん。生かされて生きておるという、言うならば観念を先ず頂く事です。生かされて生きておるのです。
迷い苦しむ人々の難儀を助けたまわんと生神金光大神様を差し向けられたのです、ね。だから、生神金光大神様がこの世に御出現なったという事はね、そういうおかげの大元になる人間の思い違い、考え違いを教えて下さろうとしておるその事が日々合楽では説かれる訳ですね。ですから自分で生きとるてんなんてん言わんというね病気をすると神様からその病気の所だけを治してもらうといったような考え方、まるっきり医者か薬かという事と同じでしょう、ね。
生かされて生きておるというその根本を分からせて頂くとです、例えばね、目が悪いならば、耳が聞こえておる。口で物が食べられる。五体以上のどこもここもがおかげを受けれおる。生かされて生きておるしるしをそこに感じるのです。
よし例えば、熱があっても咳が出てもです、生かされて生きておるしるしだとわかる時に、咳にでも熱にでもお礼が言えれるというするとすんなりした信心が出来てくるわけ。 咳だけを取ってもらおう、熱だけを下げて頂こうというなら、これは医者やら薬屋やら、神様をお医者さんのごつ思うとるという事になるのじゃないでしょうか、ね。そういう観念がすっきりして来なきゃだめなんです。ね、ね、これはもう最後までそうなんですからね。なら時間の許す限りお話ししますならね。
教祖生神金光大神様は実意丁寧神信心の生活をすすめたまいてね。世にためしなきみかげを受けたまいという事になりますね。ですから、完璧な事は出けんけども、本気で実意な人になろう、丁寧な信心を身につけさせてもらおう。生活の上にも実意丁寧な生き方をさせて頂こうとね、願わせて頂いてその事に一生懸命ならせて頂いておりましたら、んならここにですね、世にためしなきみかげを合楽ではうけとるという事になるでしょうが、、ね。これは金光様だけの専売特許じゃないという事ね。もう本当に今迄、かつて例のなかったようなおかげが合楽教会の上に表れておるという事は実意丁寧な生き方を神習わして頂く事に一生懸命ならせて頂いたら、合楽でもその通りのおかげが受けられておる。又合楽に沢山の信奉者がおる人達がそれに潤うていっておるという事なんです。だからこれは皆さんの立場で考えるならば、そういうおかげを受けておると、本当に例のないようなおかげを受けておらなければ、だからおかしいんです。受けておらないならば、どこか実意を欠いておるのだなあと、丁寧を欠いておるのだなあと先ずは悟らなければなりません。神と人との新しきあいよかけよの道立ちて神の頼みのそのままに、神も助かり人も立ち行く生神金光大神の御取り次ぎの働きを永遠に表し給うこそかしこけれ、もうこんなにかしこい限りはないという事ね。所謂合楽世界への顕現ですね。
神様と氏子とが合楽しあう、喜び合う、しかも交流し合う、私の信心がそうなんです。そこから生みなされて来るのが今の合楽のおかげなんです。だから、本当のおかげというのは、お取り次ぎ頂いておかげ頂いたじゃなくてですね、神様と私共が交流しあう事の出来れる手立てをお取り次ぎによって頂かなければいかんのです。そこから生みなされて来るおかげをですね、いよいよ教祖の神の御後を受け継ぎ世を重ね、人の願いを神様に、神のみかげを人々に取り次ぐ道の伝わりて、喜び満生活の日に日に新たに生まれつつね、ここ迄を聞かせて頂いて合楽はその通りのおかげを頂いていっておるでしょう、ね、合楽はそこん所だけは頂いとらんという事は今、読ませて頂いた所にないでしょう。だから皆さんの上にもやっぱり、そういう働きが自分の周辺に次から次ぎと、言うなら光輪の世界、光の輪が広がって行かなければ嘘なんです。
こちらの信心の光というものがが広がっていくね。五燭光から十燭光というような光になっていかなければならない。その光が、言うならばまあとぼっておるというだけで、大きくならないならば、そこお手立てがまあだ考えてられないという事になります。
日に日に新たに生まれつつ、立ち行く世界の広がり行くは有り難し。我ら道の共がらは生活の全面にお取り次ぎを頂き、日々のお礼を申しつつ、畏き天地書き附けを我が信心の鏡とし、いかなる時にも金光大神の道を貫き神の働きそのままに、我が生活の真実を丁寧親切愛をもって悟りゆき、我ら信奉者相共に人の助かるお役に立たしめ給えと、そういうお役に立たしめ給えと願ってみるだけじゃなくて、立たしめ給うておるかどうかという事を日々思うていかなきゃいけません、ね。加藤さん達が御夫婦で毎日お取り次ぎを願われる。もう本当に聞かせて頂いとって神様が一々合点して聞いて下さるだろうと思うようなお取り次ぎを願われる。しかも毎日同じ事ですけれども、それが同じふうに聞こえてこない。もう今日初めて聞くような、何という素晴らしいお届けだろうかと思う位である。ね。奥さんのお届けの一節の中にありますね、この素晴らしい合楽理念をですね、私の店にも私の身の上にも、それから周辺にもね、社会にもそれを広めさせて頂く。そういう使命感に立って御用さして下さいという意味の事をお取り次ぎ願われます。皆さんどうでしょうかね。願わにゃいけません。願うて願うて願い抜いてそれでもお使い頂かんならば、どこにか自分のお使い回しの頂けない元があるんだと悟らせてもろうて、改まる事に精進していったらいいのです、ね。
私はこれを皆さんが毎日読まれる時にです。この通りのおかげを頂いて行ける事が金光様の御信心だという事です、ね。
自分の生活の言うならば真実をと、ここにありますがです。私共のその生きざまというものがね、真実を欠いた、であっては人に伝える事も出来ませんね。これは、合楽教会だけではなくて、合楽教会の信奉者の一人一人がこの通りの一分一厘間違いのない嘘のない生き方をです、この通りに表し、毎日祈願する。この祈願が毎日成就していくというおかげを頂く事が金光様の信心であるという事が分かります。
これはどなたがお作りになったか知らんけれども、本当に素晴らしいこの祈願詞だと、ただ素晴らしい言葉がただ連ねられておるという、また素晴らしい言葉を日々ね、読み挙げておるというだけで止まらずにです。これだけのおかげが頂けるんだと、銘々の上にもね。そしてそれを頂いて初めて、言うならば生活の真実という事になるのじゃないでしょうかね。
今日は十三日ですからね、また皆さん出て見える訳でしょうけれどもね。
神様の願いが成就する日と言われる、言うならば今日一日だけでもですね。本気でこの祈願詞が私共の生き方、生活の上に自分の周辺にも立ち表れてくるようなおかげを頂きたい。そういうおかげを頂く事が取りも直さず神様の願いが成就する事になるのですね。
私共の願いが成就し、神様の願いが成就するね。所謂神様を私共がね、あいよかけよで合楽し合える世界、合楽に御縁を頂かれたという事は、そういう、言うなら大きな神様の願いがかけられての事ですから、そういう言うならば使命感にも立たせて頂いてね、その使命感の燃えるおかげを生活の上に自分の周辺に表して行かなければならん。
皆さん毎日これを奏上されて、この通りのおかげを受けておるという時に、初めて心からお礼が言えれる時でしょう。
神様がまた私共にお礼を言うて下さる時でもあろうと思うですね。 どうぞ。